『騎兵斥候露軍横断記』 参謀本部付某参謀官実歴口演、小西勝次郎編、同文社、明治45年3月10日 横田順弥氏が『敵中横断三百里』の参考になったのではないかと指摘した本。  
「批評と紹介」 「時事新報」大正3年11月号 山中峯太郎「現代空中戦」  
「八月の雑誌から」 「時事新報大正5年8月号 大窪逸人「第三革命情話」  
「正月の雑誌から」 「時事新報」大正6年1月号 大窪逸人「五大尽情史」  
「三月の雑誌から」 「時事新報」大正6年3月号 山中未成「兵営ロマンス 二等卒の物語」  
「偽電嫌疑者四名起訴さる」 「東京朝日新聞」大正六年四月二日号 いわゆる「淡路丸事件」に連座した峯太郎が起訴されたという記事である。  
「偽電を打った犯人逮捕」 「東京朝日新聞」大正六年四月三日号 「淡路丸事件」の続報で、さらに多くの関係者が逮捕され、峯太郎が東京監獄に収監されたとある。  
「落葉する日――山中氏と語る――」 秋江、「自由評論」大正9年1月号 この号から新連載をはじめた峯太郎を訪問した編集者の紹介記事。文中に「日本一」という雑誌の記者もきていたとあるが、ここにも執筆をしたのだろうか。  
「初春の文壇(一二)―「中央公論に書いた山中氏、丘浅次郎氏と大山郁夫氏と― 大田善男「讀賣新聞」大正9年1月19日号文芸欄 山中峯太郎「我れ爾を救ふ」、丘浅次郎「煩悶の時代」、大山郁夫「民衆文化の世界へ」の書評。  
「批評と紹介」 「時事新報」大正9年4月号 山中峯太郎「この身のまゝを」  
「批評と紹介」 「讀賣新聞」大正10年3月27日号 山中峯太郎「我れ爾を救ふ」の書評。  
「批評と紹介」 「讀賣新聞大正10年10月29日号 山中峯太郎「姉妹の胸」の書評  
「一月の文壇評(八)―生麦より―中村星湖、山中峯太郎「内の十字街」 「讀賣新聞」大正11年1月18日号  
「批評と紹介」 「讀賣新聞」大正12年5月1日号 山中峯太郎「維摩」の書評  
「批評と紹介」 「讀賣新聞」大正12年7月20日号 山中峯太郎「反逆の子は語る」の書評  
『弾雨を潜りて』 多門二郎、昭和2年4月29日 峯太郎の親しい先輩の著作であり、峯太郎の日露戦争ものの参考書になったとおもわれる。同じ作者の「日露戦争日記」も参照のこと。  
 「文芸的な、余りに文芸的な」  芥川龍之介 「改造」4-8月号  「暫くクロオチエの議論に耳を貸さずに抒情詩等の詩歌を例外とすれば、あらゆる文芸はジヤアナリズムである。のみならず新聞文芸は明治大正の両時代に所謂文壇的作品に遜色のない作品を残した。徳富蘇峰そほう、陸羯南くがかつなん、黒岩涙香るゐかう、遅塚ちづか麗水等の諸氏の作品は暫く問はず、山中未成氏の書いた通信さへ文芸的には現世に多い諸雑誌の雑文などに劣るものではない。」との言及あり。  
『修養全集第11巻 処世常識宝典』 大日本雄弁会講談社、昭和4年9月10日 p337「霊前または神前で」と題して山中峯太郎氏夫人山中ミユキが結婚式の心得について述べている。  
「陸軍大学を出て小説家 山中峯太郎氏」 『キング』昭和9年6月号p-310−11 「畑違ひで成功した人々」という特集記事のひとつ。  
 「九条武子」  『近代美人伝』長谷川時雨、1936年2月。 
『新編近代美人伝(下)』長谷川時雨、杉本苑子編、岩波文庫、1985年
 峯太郎の『九条武子夫人』からの引用が多数。「なぜ、この山中氏の著書からばかり引例するかといえば、材料の蒐集に、『婦人倶楽部』の多くの読者と、武子さんの身近かな人々からも指導と協力を得ているといい、筆者はもうすにおよばず、発行が、野間清治氏の雄弁会出版部であり、およそ間違いのないものであること、著者の序に、初校を終る机のそばに、武子さんが、近く来りていますように感じつつ、合掌、と書かれた敬虔な書であるので、信頼して読ませて頂いたからだ」(岩波文庫版p58)  
「序 山中峯太郎著『幽霊探訪』」 杉村広太郎、『楚人冠全集第十二巻』日本評論社、昭和13年5/25、p14-17 峯太郎の初短編小説集『幽霊探訪』に寄せた杉村楚人冠の序の再録。  
 「現代名士五分間伝記 参謀次長塚田攻中将」 西村鎮彦  「キング」昭和16年4月号p240−43  「その同期生中には、後に軍事小説家として著名な山中峯太郎氏があり、山中氏は当時の塚田中将をかう語ってゐる。
『塚田は射撃に巧みに精密なことを好み、所謂男惚れのする男だった。だが、実に平凡で何等の特長がない。唯、実直一方、コツコツと断えず勉強する。そこに教官は着目して、彼は、将来、きっとよくなると云ってゐた。軍籍にあること三十年、彼が今日あるのは、一貫して着実にやりぬいて来た結果であらう』」
(p242下段5行目から)
 
 「秘録孫文革命の覆面の日本人――革命の裏面に政商久原を動かし日本水兵を動員する奇怪な日本人があった! / 山中峯太郎」  「特集人物往来」1巻5号  国立国会図書館サーチより。  
「敵中横断三百里」 映画台本 1957年公開 大映映画。 スタッフが実際に使ったものであろう、書き込みが多数見られる。  
「読物 赤い夕日に照らされて〜山中峯太郎」 「丸」1958年4月号  
「聞書 山中峯太郎」 上笙一郎、尾崎秀樹、鳥越信によるインタビュー、「日本読書新聞」昭和36年5/8 峯太郎の青春時代のはなしなど。「私は自分の作品を、児童文学だと思って書いたことは、一度もない。どんな小説でも、みな、世のなかのすべての人に訴えたいことがあって、それを書いたにすぎません。だから、私は自分の作品に自信と誇りをもっています」また戦後公職追放になったとき、連合軍司令部にいって抗議したことものべている。  
「グラビア 少年期への郷愁」 「週刊現代」昭和36年1月8日号 山中峯太郎・田河水泡・南洋一郎・椛島勝一など  
「本郷義昭との出会いと別れ」 村上一郎、「大衆文学研究」1962年3月号 本郷義昭は「亜細亜の曙」のときは自由であったが、しだいに組織の人間になってつまらなくなってきたという。  
 「少年期への郷愁(その昔、私達の血をわかした人々)」  「週刊現代」昭和36年1月8日号  山中峯太郎、高垣眸、南洋一郎、山口将吉郎、樺島勝一、田河水疱、島田啓三のグラビアページ近影。  
「もの書きとして本懐」 「週刊読書人」昭和37年7/23 「実録アジアの曙」が文芸春秋読者賞を受賞したことへのインタビュー記事。「こんなに嬉しかったのは初めてです」と峯太郎はいっている。  
「未成と本郷義昭」 「児童文学への招待」南北社招待シリーズ6,昭和40年7月5日、南北社 日中交渉秘史と『中央公論』での中間読物ライターとしての仕事に目を向け、「硬軟両様の側面を立体的に把握しないかぎり、彼のもつ可能性の全部を理解できない」とのべている。  
 「評伝・山中峯太郎―人と作品」  尾崎秀樹「大衆文化論:活字と映像の世界」所収、大和書房  
「『少年倶楽部』の意義」 佐藤忠男、「少年倶楽部名作選第二巻、長編・中編小説集」講談社) 「思想の科学」昭和三十四年四月号掲載「少年の理想主義について」の改稿。  
「義憤! 孫文の許へ <山中峯太郎>」 尾崎秀樹「人物往来」昭和41年2月号p28-34 峯太郎の青年時代から革命に参加するまでの小史。のちの評伝の原形の一つ。  
「風雲児 山中峯太郎の世界 その見事なアジテーション」 山中恒「日本読書新聞」昭和41年6/13 峯太郎の追悼記事。峯太郎の評価を「大本営情報局のアジの技術を再評価しようとするにも等しい空しさにつきまとわれるだけだ」と切って捨てる。峯太郎の客観評価は戦中派にはむりなのか。  
「日東の剣侠児」 樺島勝一画、「少年倶楽部名作選第四巻 絵画編」講談社所収。昭和41年三月 樺島描く挿絵を一枚再録。  
 「悼山中峯太郎氏」  木村毅 「日本古書通信」昭和41年205号  本文中ほとんどで「中山」と誤植。芥川龍之介が「侏儒の言葉」で山中未成に言及しているとあるのは、「文芸的な、余りに文芸的な」(昭和2年)の誤りか?  
 「(続)二つの死 山中峯太郎氏と児玉佐一郎氏」  「大乗ブディストマガジン」6月号    
 「わが文学半世紀」  江口渙、青木文庫1969年2月25日  「私は小学校を大阪ですませた。大阪城の西北近くにあった。大阪偕行社附属小学校である。この小学校は陸軍の軍人の子供を入れるのを目的につくったもので黒の小倉地の正服をきていた。上着のえりにはほそく赤いへりがとってあり、ズボンは半ズボンで、これまた外がわに同じような赤いすじが入っていた。帽子はドイツ帽といって、ふかい桶のような形をしていた。陸軍風の山がたに桜のきしょうをつけていた。すべてが軍隊式で、とくに体操のときには軍隊から若い将校や下士官がきておしえた。この小学校からはいろいろな人間が出ている。私の同級生に山中峯太郎いた。第一世界大戦当時に東京朝日の記者としてその才筆をうたわれたが、ドイツの潜水艦が玄界灘にあらわれたという偽の電報をうって問題になり、朝日をやめさせられた上に、たぶん、刑務所に入れられたようにおぼえている。その後、少年むきの冒険小説をかいていたが、いまはどうなったかしらない。私や山中峯太郎の三四級下に宇野浩二がいる。」(p250)  
「作品による日本児童文学史・第二巻・昭和前期」 滑川道夫他編、牧書店、昭和43年6/20 「敵中横断三百里」の冒頭部分と粗筋をおさめている。また「解説大衆児童文学の流れ」(滑川道夫)の一章「龍渓・春浪の発展」では、「昭和五年「敵中横断三百里」(『少年倶楽部』4〜7)によって登場した山中峯太郎(一八八五ー)が、春浪系譜を飛躍的に発展させる役割を果たした」とし、「日東の剣侠児」「亜細亜の曙」に言及し、「その主人公は愛国者で熱血漢であり、勇気ある行動力と責任感と使命感をつよくもっている。春浪の作中人物は観念的に行動する欠点が目立ったが、山中の人物造形は、これよりはるかにイメージがゆたかになっている」と述べている。  
『少年倶楽部時代』 加藤謙一、講談社、昭和43年9月28日 『少年倶楽部』編集長の回想録。口絵に椛島勝一の「敵中横断三百里」と「亜細亜の曙」の挿絵を収録。p203〜206に「山中峯太郎」と題して、「敵中横断三百里」執筆の際に豊吉軍曹から話を聞いたエピソードを紹介している。  
「大衆児童文学 人と作品 山中峯太郎」 尾崎秀樹「週刊読書人」昭和43年10/28 尾崎秀樹は峯太郎の完全な年譜をつくると約束していたのに、まだはたせないでいると書いている。そのほか大人ものをふくむ作品の紹介。  
 「あとがき」  加藤謙一、「少年倶楽部名作選第六巻 熱血痛快小説集」講談社、昭和44年  『少年倶楽部』元編集長による。その中に峯太郎関連のエピソードとして、
「山中峯太郎先生の夫人ミユキさんは、先生の没後述懐されて、「あなたがたが来られて主人とはげしくやりあっておったとき、お茶を運んでいった私が、その部屋にはいることができなくて、障子の外に立ちすくんだものです」といわれた。そういわれて思い出したが、新しい連載小説のはじまる毎に、われわれがそろって先生を訪ねた折り、双方の意見が一致することもあり、時には容易に双方の納得が得られない場合もあった。そんなとき、気性のはげしい先生の声はしだいに大きくなり、血の気の多かった若造のわれわれも興奮の度がたかまり、激論が果てもなくつづいて夫人をハラハラさせたものだった。」
 

1970年代以前の山中峯太郎関連文献